普通とは・・・。マイノリティとは・・・。
映画「性欲」は、マイノリティにスポットを当てた映画です。映画の冒頭で桐生夏生(新垣結衣)の刺激的なシーンが映されるので、性的な「性欲」を連想させますが、決して性的な映画ではありません。現代社会のマイノリティの存在を考えさせてくれる奥が深い映画です。
検事の寺井(稲垣吾郎)は小学生の息子が不登校でユーチューバーになりたいと言っていること、妻の由美(山田真歩)がそのことに理解を示そうとしていることに、憤っている。学校に行かない生き方も多様性だという。
大学生で男性恐怖症の神戸八重子(東野絢香)は、ダイバーシティ(多様性を認め合う)フェスを企画するなかで、大学生でダンスサークルの諸橋大也(佐藤寛太)と出会い思いを寄せていく。
ショッピングモールで働く夏生(新垣結衣)は、店で友達と会い結婚式に誘われ、佐々木佳道(磯村勇人)が地元に帰ってきていることを聞かされる。中学時代、夏生と佳道は同じで水フェチで共感しあっていた。
寺井の息子は同じ不登校の子供とYouTubeを始める。妻は楽しそうな息子を見て安心しているが、寺井はやはり納得いかない。YouTubeの視聴者から、子供たちが水場で水鉄砲で遊んでいるところをアップして欲しいという依頼があり、撮影できるとこに連れて行って欲しいと頼まれるが、反対する。息子たちを扇動するユーチューバーにも不快感を感じていく。
夏生は結婚式で、同じマイノリティとして共感しあっていると思っていた佳道と再会するが、幸せそうに過ごしていることに不満をもち、佳道の家の窓ガラスを割って逃げてしまう。職場では先輩の妊婦がマウントを取ってきて、夏生のストレスは膨れ上がっていく。
大晦日の日、夏生は車を運転し自殺しようとガードレールに突っ込もうとしますが、飛び込み自殺をしようと突っ込んできた自転車を避け、両者とも助かります。自転車で突っ込んできたのは佳道だった。
2人は佳道の部屋に行き、自分たちのマイノリティを分かち合い、2人で生きていくことにする。しかし、お互い人間は愛せない。水しか愛せない。マイノリティにしかわからない、苦しさを慰めあって生きていく。
2人は、横浜で普通の人間、普通の夫婦として装った生活を始めていく。2人は共同生活を始めるが、とても夫婦のようなものではない。2人が興味あるのは水に関するYouTube。お互いYouTubeにでてくる水フェチの「フジワラサトル」という人物が当人であると思い込んでいた。
寺井の息子のYouTubeが、性犯罪に利用されて閉鎖される。怒った寺井は、妻を責めるが納得できない妻は息子と家を出ていく。小学生ユーチューバーを多様性として認めるのは間違っているだろう。
八重子は、好意を持っていた諸橋大也に男性恐怖症を打ち明け、告白するが大也にあっさり、断られる。大也もマイノリティとして苦しんでいる。
佳道は同じ志向を持つ「フジワラサトル」と接触を試みる。今度、もう一人、「コバセ」と名乗る水フェチも含めて3人で動画を撮ることにする。
夏生は佳道に、一度、セックスというものがどういう感じか経験してみたいと提案する。本当に行為はしないが、その状況でどんな気持ちになるか体験したいと。性欲がない人からすれば、セックスは運動しているみたいで、「普通の人も大変だな」という感想になる。しかし夏生は徐々に佳道に情が移っていく。
佳道と「コバセ」「フジワラサトル」の3人は、念願の水で遊ぶ動画を子供たちと撮影する。
ある日、矢田部陽平(岩瀬亮)という小学校の先生が逮捕される。矢田部は「コバセ」と名乗り佳道たちと動画撮影を行っていた人物で、水フェチで小児性愛者だった。警察に小学生を買春した映像も押収される。一緒に動画を撮影した佳道と「フジワラサトル」も小児性愛者と思われ警察に連行される。「フジワラサトル」は大学生の諸橋大也だった。彼のマイノリティも水フェチだった。
2人は取り調べを行う検事の寺井(稲垣吾郎)に、小児性愛者ではない、ただの水フェチだと主張するが、水フェチという存在が理解されずに疑いがはれない。マイノリティの苦悩が、理解してもらえない。夏生が寺井と面会し、夏生も小児性愛者ではなく水フェチだと主張するが、やはりわかってもらえない。水フェチに軽蔑的な発言をする寺井に、夏生はマイノリティの苦悩をぶつける。夏生は寺井に、「いなくならないから」と佳道への伝言を頼み、検察所を去り、映画は終わる。
考えさせる映画でした。
普通とは・・・・。マイノリティとは・・・・・。
普通とは、多数派から見れば多数派が「普通」、マイノリティと呼ばれる少数派が「普通ではない」となる。とすれば少数派が多数派の人数を超えれば「普通」になり、以前の多数派が「普通ではない」になる。そう考えると「少数派」「多数派」はいつの時代も存在するが、「普通」は流動的で普遍的なものではなくなる。ならば「普通」という概念は捨てても良いのではないでしょうか?
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